沿 革(草創期〜昭和55年まで)

 花巻市協会発足は昭和301955)年であるが、そこに至る経緯を参考までに掲載します。

 岩手県ハンドボール史創立40周年記念誌通史「40年のあゆみ」(岩手県ハンドボール協会平成元年1123日発行)を引用(一部加筆修正)し、花巻市関係部分を青色太字としている。

 

〔岩手のハンドボールのおこり〜草創期〕

 悠久なる大河北上川の流れも、その源をたどれば一つの泉に達するがごとく、幾多の業績に輝く岩手のハンドボールの歴史が箱崎敬吉に始まるということができよう。

大正4(1915)年

ドイツで女子の競技として生まれ、やがて男子にも普及。

大正111922)年

欧米留学から帰国した大谷武一が日本に11人制ハンドボールを紹介。

昭和201945)年

花巻市上町生まれの箱崎敬吉が東京高師(現筑波大)在学中、第2次世界大戦の終結即ち敗戦は、彼が花巻中学(現花巻北高)時代から続けていた柔道を無情にも奪ってしまう(学校柔道禁止)。その思わぬ転機に、柔道に代わる競技として情熱を傾けたのが新興スポーツのハンドボールだった。

昭和231948)年

箱崎の所属する東京文理大が関東学生リーグを制し、次いで、初の全日本学生王座決定戦で優勝。一関高(現一関一高)の教師として着任した永井勝雄(東京高師出)が体育の授業でハンドボールを指導。

昭和241949)年

箱崎が教員として着任した盛岡高(現盛岡一高)が岩手のハンドボールの出発点となった。6月に第1回高校総合体育大会、9月に第1回県民体育大会という本県スポーツ界にとって画期的な二大ビッグ大会のスタートを切った。箱崎によって本格的なハンドボールが導入され、高校総体でオープン試合(日居城野運動公園陸上競技場)としてお披露目した後、6月20日には日本ハンドボール協会から常務理事の的場益雄を招いて技術講習会を開き、普及への第一歩を踏み出した。その後7月までに花巻高(現花巻北高)、岩手高にもチームが誕生し、第1回県民体育大会(9月17日開会)には4チームが参加。県民体育大会の開催に先立って9月1日岩手県ハンドボール協会設立。初代会長には、旧制盛岡中学の卒業生で、早稲田大学時代は陸上競技や柔道をやっていた菊池慶一郎(東北マッチKK社長)が就任。初代理事長には箱崎が就任し、名実共に本県ハンドボールの歴史が始まった。

 

 

〔一般男子、一般女子の誕生〕

昭和251950)年

 一般男子のチームでは、盛岡一高OBの白堊クラブの発足が一番早かった。1年前に高校のクラブが出来たばかりで、その卒業生にバスケットやサッカーの選手を借りての急造チームであった。この年の9月、盛岡で開かれた第3回東北選手権大会に出場し、初出場ながら健闘、仙台クラブと決勝を争い、1対0で惜敗したものの将来に大きな希望を抱かせたのであった。その後、岩手高OBの石桜クラブ、花巻北高OBの花巻クラブなどが県内大会に出場するようになったが、全国大会で活躍を見せたのは白堊クラブだけである。

昭和271952)年

国体(福島)は、一般男子の出場枠が東北ブロック2チームとなり、白堊クラブは第2代表として初の国体参加となった。初戦で優勝した大阪クラブに14対6で敗れたが、大阪は準決勝で栃木に164、決勝で全神奈川に11対3という圧勝であったから、初出場の白堊クラブは大健闘と言える。

昭和301955)年

本県一般女子の場合は、高校女子より1年早い昭和30年の誕生であった。

その背景には、男子が東北大会や全国大会で活躍しているのに、女子のチームがないは片手落ちだという思惑もあって、協会理事の佐藤敦や白堊クラブの伊藤昭治、平館智らが中心となって、すぐにやれそうなチームづくりに着手したのである。お目当ての岩手女子高卒業生に働きかけ、集まってきたのはバスケットボールの中田京子、川崎祐子、高橋盛子、バレーボールの妹尾妙子、石川アヤ、片桐スエ子、ソフトボールの東根マサ子、阿部八重子のほか、佐々木静子、小原すみ子、松島千代子といった面々、それに同校教員の千葉充子も加わり、何とかメンバーを揃えた。「白百合クラブ」と名付けられた。

 白百合クラブは、早速秋の東北大会出場を目指して、学校を借りてルールの学習や基本練習の手ほどきを受けた。夏には佐藤理事長宅に合宿して、朝夕は県営グランド(現岩大グランド)で練習、日中は仕事、夜はミーティングとハードなスケジュールをこなした。何しろ当時は男子と同じ11人制で広いグランドを駆け回るハンドボールは、女子にとって誠に激しいスポーツであった。しかし、1人の脱落者もなく頑張ったひたむきな努力と指導陣の熱心な援助は、後々までの語り草となっている。

かくして郡山で行われた東北大会に出場、福島クラブと互角に戦いながらも2体1で涙をのんだ。翌31年は、同じ福島代表の郡山クラブに6対3と雪辱、続く決勝戦で宮城代表の涌谷クラブに4対3で惜敗した。ブロック代表1チームのため国体出場はならなかったものの、本県女子チームの草分けとして、後輩に対する大きな指標となった。

昭和351960)年

秋田・大曲市で行われた全日本総合選手権大会に出場した白堊クラブは、2回戦で全法政大を11対7で破る殊勲をあげて準々決勝に進み、この大会で優勝した芝浦工大に敗れはしたものの堂々のベスト8は特筆される。

 

〔高校女子の誕生〕

昭和311956)年

 一般女子に遅れること1年、本県高校女子チームの結成は昭和31年の盛岡二高が最初である。生徒の中には白堊クラブに所属する兄の影響を受けたりして、1年ほど前からクラブづくりの動きはあったが、具体化したのは花井友三郎が体育の教師として着任したのがきっかけとなった。花井は陸上競技が専門であるが、県協会や白堊クラブのメンバーからぜひ一役かってほしいと頼まれ、ひとはだ脱ぐ決心をした。専門外だけに部員集めや部の新設には相当苦労したといわれる。当時のメンバーは谷藤十三子、佐々木能枝、川井洋子、菅原洋子、山本和世、楠城伸子、長谷川紅子、川田京子らで、これをコーチしたのが、白堊クラブの藤原安弘、長谷川恵三であった。11人制最後の年に当たり、一般女子同様大変に激しいスポーツだったわけであるがよく練習に耐えた。9月の東北大会では初戦郡山女子高を4対2で破って公式戦初勝利を飾り。次いで東北では無敵といわれた涌谷高と国体出場権をかけて争い、惜しくも5対4の1点差で涙をのんだが、初陣にしては立派な成績であったと言える。この健闘に部長の花井は大喜びで帰校すると。講堂で全校生徒を目の前に選手の活躍ぶりを報告するという前例にないことをやったという。こうしたことが契機となって体育の時間にもハンドボールをやるようになり、普及の芽が大きく育っていった。32には岩手女子高、花巻南高にもチームが結成されて、高総体では3校リーグ戦によって覇を争うようになったのである。

昭和321957)年

競技規則改正により、中学校および女子の公式試合はすべて7人制で行われることになったため、昭和31年の盛岡二高は最初で最後の11人制チームということになる。

 

〔室内大会の開催〕

昭和341959)年

1月、協会創立10周年を記念して式典後第1回県下総合室内ハンドボール選手権大会が開催された。7人制ハンドボールの育成とシーズンオフの練習を強化するのがねらいであった。会場は盛岡体育館で、34m×20mの狭いコートであったが、当時としては唯一の施設であったのである。これに先立ち、12月に同会場で箱崎理事長、佐藤理事を講師として講習会を開き、ルールや技術の指導が行われた。本番の大会には男子12チーム、女子4チームが参加し、白堊クラブ(男子)、盛岡クラブ(女子、岩女・盛二のOG)が初優勝を飾り、県議会議長杯、県ハンドボール協会長杯が贈られた。以来、毎年1月上旬に行われ、正月休みの帰省者も多く、また高校のバスケットボールクラブが単独で参加するなど、親善やお祭り的要素も持っていた。

 その後、高校と一般チームを一緒にして試合を行うのは、学校の対外試合規定上問題があるとして別々に分けて優勝を争い、最後に両者で王座決定戦を行うという方法が取られるようになった。

昭和381963)年度

7人制全面切換え、ルール改正の伝達や審判員資格がA、B、C、Dの4段階に変わったことによる対応など、精力的に取り組まねばならず、一本化は大きな転機であった。

昭和391964)年

第1回東北室内選手権大会が開催されるに及んで、お祭り的要素は次第に消え、現在のような代表権をかけた真剣な試合が展開されるようになった。

 

〔本県初の国際選手〕

 本県初の国際選手は、男子の北村尚英(盛岡一高卒)と女子の山田帆浪(現伊藤、花巻南高卒)で共に日本代表として世界選手権大会に出場している。

 北村は盛岡一高時代から将来有望な逸材として注目され、昭和331958)年の全日本高校選手権大会で全国優秀選手に選ばれた。高校から当時の名門芝浦工大に進み、全盛時代の中心選手として活躍し、4年生では主将に選ばれ、全日本学生選手権、東西学生王座決定戦等のタイトルを独占した。卒業後実業団の雄 大崎電気に入社し、更に磨きをかけられた。

 かくして昭和391964)年、チェコのプラハで開かれた第5回世界選手権大会の日本代表選手に選ばれて遠征し、予選リーグでソ連・ルーマニアに敗れたが、ノルウェーに1814で快勝し、貴重な1勝をあげた。日本チームの初勝利であり、その初得点を決めて突破口をつくったのが北村である。このほか昭和351960)年のルーマニアを迎えての親善試合、昭和401965)年の中国遠征、昭和411966)年のステラ(フランス)との国際試合にも出場し活躍した。

 一方、山田は花巻南高時代はバレーボールの選手であった。日体大短期部に進み、一時バレーボール部に籍を置いたが、思い切ってハンドボールに転向し、長身とジャンプ力が買われてゴールキーパーとして鍛えられ、メキメキと上達した。卒業後実業団のレナウン工業で活躍し、昭和371962)年日本が初めて参加した第2回世界女子選手権大会(ルーマニア)の代表選手に選ばれたのである。結果は4戦して1勝もできなかったが、親善試合では好成績をあげるなど貴重な成果をあげた。レナウン工業は昭和381963)年の全日本実業団選手権、昭和391964)年の国体でも優勝し、山田は名ゴールキーパーとして活躍したのである。

 

〔全日本高校選手権大会の開催〕

昭和411966)年は、本県で昭和41年度全国高校総合体育大会第17回全日本高校ハンドボール選手権大会が開催された記念すべき年である。時あたかも昭和451970)年の国体誘致運動が熾烈を極めていた最中であり、県協会としても万全を期して受け入れ準備に当たったのである。

 大会の主管者である県高体連は、大会事務局を盛岡市内丸の県合同庁舎事務所に設け、2年越しの周到な準備と協会関係者の積極的な活動、とりわけ専任担当者となった増田学の献身的な努力によって精力的に仕事が進められた。日本協会との連絡、審判員・競技補助員の養成、選手強化など大会準備に明け暮れした1年であった。ハンドボールだけの単独開催ではなく、体操・剣道・登山の4競技が同時に岩手大会として行われたので式典、宿泊、輸送など大会事務局の苦労は並大抵のものではなかった。

 ハンドボール会場は、新設の県営運動公園球技場であったが、大会を間近にして連日の雨に災いされ、グランドは泥田のように荒れた状態となった。そのため、役員・補助員が全員で3日がかりで整備にあたり、大会当日は今までの全国大会では見られないほどの立派なコートに仕上げたのである。

 いよいよ8月2日、新装成った県営運動公園陸上競技場に高松宮ご夫妻をお迎えし、4競技合同の開会式が行われた。ハンドボールは全国47都道府県から男子51校、女子48校が参加し、本県からは男子盛岡一高、盛岡商高、女子は花巻南高、花巻農高の4校が出場したのである。

 成績は、盛岡商高、花巻農高は1回戦で敗れたが、盛岡一高は3回戦まで進出、そして花巻南高は遂に決勝戦まで勝ち進み、準優勝に輝いたことは、開催県としての面目を施したばかりでなく、本県高校スポーツの向上に大きな刺激になったのである。

 花巻南高のメンバーは、監督木原正和、コーチ高橋正儀、選手中島倫子、富手美紀子、川井律子、三浦朝子、菅原京子、市橋和子、伊藤姫子、山口京子、鎌田セツ子、坂野カヨらで、2回戦から出場し、高志高(福井)、吉原高(静岡)を連破、準決勝で夙川学園高(兵庫)を10対3と降した。決勝は秋田和洋女子高で、奇しくも隣県同士で王座を争うことになり、会場は両校の応援団で熱気を帯びた。花巻南高は、前半の立ち上がりは雰囲気に押されて堅さが見られ、序盤5分で3対0とリードされたが、その後激しく追い込み、後半14分でタイに持ち込み、更に両校とも1点ずつ加点し、緊迫感あふれる好試合を展開したが、時間切れ寸前、秋田の長身阿部の痛恨のミドルシュートを許し、遂に4対5の1点差で涙をのんだ。しかし、その健闘ぶりは実に立派で、両校をたたえる惜しみない拍手がいつまでも続いたのである。

 本大会で特に活躍が顕著であった盛岡一高の近藤聖二、花巻南高の中島倫子、市橋和子の3人が、優秀選手として表彰を受け、錦上花をそえる形で全日本高校選手権大会が、大成功のうちに終了することができたのである。

 

〔花巻南高の輝く全国優勝〕

 初優勝を逃した花巻南高は、1年後さらに力をつけた。昭和421967)年、第18回全日本高校選手権大会は和歌山市で行われたが、同校は遂に悲願の優勝を成し遂げ、初の高松宮賜杯と大優勝旗を岩手の地にもたらした。前年の準優勝を凌ぐ金字塔を打ち立てたのである。

 会場の和歌山は連日の猛暑であった。花巻南高が前年のメンバーである三浦(主将)、川井、坂野、山口、富手らに、関優子、岩間節子、中島光子、鎌田節子、箱崎優子、多田律子らが加わって、一段とたくましく成長した。2回戦深谷女高(埼玉)、3回戦桜水商高(東京)、4回戦名古屋女子商高(愛知)を連破、準決勝で新居浜市立商高(愛媛)を5対3と降し、前年に続いて決勝に進出した。相手は室蘭商高(北海道)で、昨年と同様北国勢同士の決勝戦となった。前半、エース三浦、川井の得点、ゴールキーパー坂野の好守で3対2とリードし、後半も主導権を握って激しく迫る相手を押さえ、5対4の1点差で感激の初優勝を飾ったのである。すでに体力・技術の限界を超え、正に結束されたチームの気力の勝利であった。そして、その大会でハイレベルのプレーで活躍した三浦、川井、坂野の3人が、昨年の中島、市橋に続いて全国優秀選手に選ばれたのである。

 花巻南高は、続く東北大会で圧倒的な力で優勝し、もう一つの目標である埼玉国体へと駒を進めた。「全国一」という重荷を背負って追われる立場となった同校は、全日本高校選手権大会で対戦した名古屋女子商高を準々決勝で、深谷女高を準決勝で再び退けて決勝に進出した。相手は関東代表の栃木女高(栃木)、前半2対1とリードし、決勝戦にふさわしい一進一退の攻防が続いたが、エース三浦が執ようにマークされ、川井は足首ねんざという不運もあって、遂に3対4で逆転負けを喫したのである。惜しくも全国2冠の夢は砕かれたが、全日本高校選手権大会優勝、国体準優勝の栄光は、ひとり同校やハンドボール協会のみならず、本県スポーツ史に燦然と輝く偉業である。

 この業績に対して、岩手日報社から「日報体育賞」。県体育協会および県高体連から「栄誉賞」が贈られた。選手の健闘とともに、これを育てた部長の木原正和、監督の畠山正、そしてコーチの高橋正儀の指導力は、高く評価されるものである。

 

〔本県初の国際大会〕

昭和421967)年は、花巻南高の大活躍に沸いた年であったが、もう一つ特記されることは、本県で初めて国際大会が開催されたことである。9月13日、新装成った岩手県営体育館に西独男女ナショナルチームを迎え、国際親善ハンドボール盛岡大会が行われた。昭和451970)年の岩手国体が正式決定し、ハンドボール会場が盛岡になったことも、開催に漕ぎ着けた大きな要因であった。

 日本チームは、東京教育大、日本体育大学等の学生を中心とした東日本選抜チームで、その中には、男子コーチ兼選手の北村尚英、主将増田学、選手谷藤勝美、女子マネージャーの山田帆浪、選手熊谷佑子、中島倫子、三浦朝子の本県出身者7名が含まれ、いやが上にも人気が高まった。会場の県営体育館には、隣県の青森・秋田・宮城からも観客が詰めかけ、2,000人を超すファンで満員の盛況であった。とくに花巻南高は、母校選手に対する応援とあって、大挙貸切バス数台で駆けつけるという熱の入れ方であった。

 第1試合は男子で、前半東日本選抜は胸のすくような先制攻撃と巧みな試合運びで12対9とリードしたが、後半西独チームは闘志むき出しの体力を生かした強引なプレーでじりじり追い上げ、結局地力に優る西独に2321と逆転負けした。その原動力となったのは、9点をたたき出した身長193センチのメンダッハで、さすが西独の誇るプレーヤーであることが強く印象づけられた。

 続く第2試合の女子は、男子以上に緊迫し、1点を争う接戦となった。東日本選抜は立ち上がりやや堅くなったが、前半半ばから盛り返して4対3とリード、後半連続失点で逆転され、再び追い上げて1点差と迫ったが、遂に及ばず9対8で押し切られた。同点のチャンスも度々あり、1点差をめぐる攻防に場内は沸きに沸いた。

 ハンドボール発祥の国西独チームの来県は、県内外の多くのファンに大きな感銘と教訓を与えてくれた貴重な大会であったのである。

 

〔国体開催と各種ビッグ大会〕

昭和441969)年、県協会も創立20周年を迎え、箱崎、佐藤敦の両人を筆頭に佐々木茂喜、太田利彦、増田学をはじめとして人材が豊富となり組織も充実してきた。昭和411966)年の全日本高校選手権、昭和421967)年の日・西独国際試合に引き続き、昭和441969)年には国体リハーサル大会として第21回全日本総合選手権大会を開催した。

 この全日本総合選手権には、実業団、大学、教員、クラブの強豪男子32チーム、女子16チームが参加し、国体に備えて新装成った県営グラウンド(現岩手大グラウンド)と県営体育館(決勝戦のみ)での熱戦は、まさしく日本のチャンピオンを決めるに相応しいものであった。特に、世界選手権に出場した全日本のメンバーを大量に抱えている大崎電気と日本のエース木野を擁する全立教との男子決勝は、素晴らしいプレーの応酬のうえ1点を争う白熱したゲームとなり、観衆はハンドボールの魅力の虜となった。また、この大会には学生の覇者日本体育大のメンバーとして、本県出身の谷藤勝美(盛岡商高出)がスピード豊かなプレーを披露し、チームの第3位入賞に貢献、故郷に錦を飾った。更に、地元岩手からは男子の部に岩手教員クラブと盛岡商友会、女子の部に全岩手(成年)と岩手女子高が参加し、男子は共に2回戦に勝ち進み気勢を上げた。

 

〔花巻市協会の充実発展〕

昭和301955)年

 花巻市協会は伊藤伝蔵を会長に迎え、初代理事長根子安正で発足し体育協会に加盟していたが、実質的な活動は県民体育大会に選手を派遣する程度で他には何も無く、2代目理事長山本博が転勤してからは有名無実に近い状態であった。

昭和421967)年

花巻南高がインターハイにおいて優勝を飾ったことが契機となり、431968)年木原正和、畠山正が、当時市内の高校に勤務していたハンドボール関係者に、新しいスタッフで再スタートをし、花巻市ハンドボール界の振興に寄与しようと呼び掛けた。会長には、木原が花巻南高が優勝した時のメンバーを出来るだけ一緒に勤務させたいと考え、それを快く引き受けてくださった縁で株式会社小田島の社長小田島實にお願いし、副会長に花巻北高OB会長の太田代誠二、理事長に山口紀士、事務局長は木原正和、理事は各校の顧問で、花巻南高の畠山正、花巻農高の高田敏晴、花巻北高の中島(小友)正人、それに花巻北高OBで各校のコーチをしていた鎌田善男、高橋正儀等が当たり、事務局は花巻南高に置いた。

早速、その年の春から、会長にお願いして高校男女の優勝カップを寄贈して戴き、市民体育大会ハンドボール競技を開催した。これが成功して関係者は意気が上がり、秋も開催しようと意気込んだ。そこで、市役所に勤務している山口が市長と教育長に掛け合い、優勝カップを準備した。春は高校総合体育大会の、秋は高校新人大会の格好の練習の場となった。これが現在の県南選手権の始まりである。この大会は、盛岡一高、盛岡商高、盛岡二高、岩手女子高等の打倒盛岡勢を考えた意味も含まれていたし、協会運営に関しても盛岡中心に対する対抗意識的なものもあった。

昭和451970)年

1月、それまで高校新人大会は毎年花巻で開催されていたとは言え、その他の県レベルの大会は一切盛岡であったものを、初めて第12回県室内総合選手権を花巻で開催した。

昭和461971)年

同大会開催

昭和471972)年

27回県高校総合体育大会開催

昭和511976)年

東北高校選手権を開催するに至った。これは、その後赴任した柴内昌(花巻北高)、熊沢好政(花巻南高)、菅野清三郎(花巻農高)らの高校の顧問が中心になったのは当然としても、地元のハンドボール関係者が一体となって対処したからに他ならない。前出のほか藤田一志、似内秀利、佐藤良介、高橋幹夫、阿部真、伊藤有一(いずれも花巻北高出)、中島倫子(花巻南高出)、佐藤豊彦、牛崎貢(花巻農高出)らである。

昭和541979)年

これらの最大の力の結集により、第4回日本リーグ花巻大会を開催することとなった。全国各地において日本のトップチームが転戦し、東北においても各県で開催しているにもかかわらず、東北のハンドボール先進県を自負している本県が、一度も開催していないため、市協会で実施しようという声が高まった。山口は市に後援を依頼して開催権料を確保し、柴内と小友は小田島会長に入場料収入がいくらになるか予想もつかず20万円前後の赤字もあり得るとして、その場合の不足分をお願いしたところ、いくらでも協力するから心配しないで開催するように、という心強い返事をいただき、両名は喜び勇んで帰ってきた。こうなれば鬼に金棒であり、開催に向けて準備に取りかかったが、若いエネルギーは会議を開く毎に欲を拡げ、せっかく名監督や名選手がくるのだから、高校生対象に実技講習会を実施してもらおうということになり、谷川が交渉して、男子は花巻市民体育館で三陽商会の近森克彦監督を、女子は花巻南高で大崎電気の谷口俊郎監督を講師にお願いして実施した。次に審判も、日本のトップクラスの北井晴次、上久保重次の両氏を派遣してもらうよう日本リーグ運営員会にお願いし、審判講習会も実現した。更に、会長の配慮により、本部、地元役員、審判員、監督の歓迎レセプションも開催して、大会の盛り上がりを図った。当日、輸送・駐車場・入場から式典・競技まで全ての運営を市協会、花巻クラブ・花巻送球会のメンバーで行った。

 大会は、花巻市民体育館が超満員に膨れ上がる中で、男子は、全日本代表選手を揃えた大同特殊鋼と若さ溢れる三陽商会、女子は岩手女高出身の藤村がいる大崎電気と上り調子の大和銀行が対戦し、大同の蒲生を中心としたダイナミックな攻撃と、大崎のスピード溢れるプレーに、ハンドボールの町・花巻市民も、県下各地から集まったファンも満足しきった顔であった。そして、心配した会計も黒字になり、若干の益金が残ったので、それで現在の県南選手権の優勝カップを日本リーグ開催記念杯として買い揃えたのである。

昭和551980)年

第3回東北クラブ選手権、第32回県民体育大会を開催するに及んで、完全に盛岡で実施するも、花巻で実施するも同等の評価をもらい、以後、県総合・高校総体・高校新人大会を交互に行うこととなった。また、高校選抜県予選は常に花巻であり、ミニ国体以外の東北規模の大会も全部花巻で開催されてきた。その間、事務局長を務めた増田学、稲垣康和、高体連専門委員長の谷藤勝美、藤澤弘造、市内高校顧問の砂子田政男、石幡信、千葉祐悦、神山秀市(花巻農高)、斉藤敏博、佐藤猛夫(花巻北高)等の地元と一体となった活動は大きな力であった。

 現在、成年男子の花巻クラブが東北一を争う力を有し、花巻送球会も若返りを図って積極的に活動しており、高校勢も花巻北高男女、花巻南高が常に県大会で優勝を争っている状況から、協会運営、強化面ともに充実発展を続けている花巻市協会であるが、今後の課題としては、成年女子の強化と中学校の普及・強化であろう。特に、現在活動している花巻中学校・花巻北中学校の強化を図ることが急務であり、更に他の中学校に普及するための人的、経済的援助があげられる。